隣の芝は青く見える。ときの対処法とは?
■ここではないどこかへ行きたい病
伊豆方面にドライブに行ってきました。
オーベルジュで食事をしたり、漁港に立ち寄ってとれたてのお魚をいただいたり。帰りはたんまりと干物や野菜、果物を買って帰路につきました。
訪れたオーベルジュは別荘地内で営まれている隠れ家的な場所なのですが、素敵な場所に旅行に出かけると私は決まってこういう会話を始めます。
「歳とったら、こういうところに家を買って移住するのもいいかもね」
「そうしたら毎日何をする?」
「ときどき東京に行くのもいいよね。そうすると今の家は残す?」
(今思うと、夫は毎回この夢見話の相手をよくしてくれていると思います…)
田舎にある家や、風光明媚な場所にある家、あるいは家族が大勢住めそうな大きな家、お庭の広い家を見ると発動してしまう「うらやましい」病、あるいは「いいな〜」病。
もしかしたら、私、いろんなコトやトコで、この「いいな〜」病を発症させているかもしれません。
ちなみに最近発症させてたのは、桜の見える家いいな〜病。マンションのベランダが街路樹の桜の間近にあるお宅ってあるじゃないですか。そういうお家を見上げて「家から桜が見えるのいいなあ〜」ってうらやましがっていたのです。
ところが❗うちも桜の見える家だったんです。寝室のマドからお隣の桜がばばーんと見えます。リビングとかキッチンとかじゃなかったから、私の中でうちは「桜の見える家」扱いじゃなかったのです。
キッチンでご飯を食べながら桜を眺められない、お友達を呼んで花見はできない。だからうちは、ほんとうの意味では「桜の見える家」じゃないと。
この例はあまりにアホすぎる、かもしれません。でも、こういうことって実はいっぱいある気がするんです。
うちの車は、お隣さんみたいな高級車じゃないから恥ずかしい。
うちの夫は、友達のところみたいにたくさん稼げないから、頼りにならない。
ちゃんと「持っている」のに、自分の理想と違うから「その価値を認めていない」こと。
■「いいな〜」病と付き合っていく方法
おそろしいことに、私たちは、自分が手に入れてしまったもの、当たり前にあるものは「小さく見える」という習性があります。
お金持ちの家に生まれた人は、例えば子どもの頃から海外旅行に行くことを大したことだと思わないでしょう。美しく生まれた人は、だれかに「きれいだ」「美人だ」と褒められることには飽き飽きして、もっと違う自分の価値がほしいと思うかもしれません。
私は、学生時代から「東京に一軒家をもちたい」と夢見てきました。自分としては「大それた夢だ」と思っていましたが、実際に大人になって、自分の力で東京23区に家を買うことができました。
ところが。東京って場所は、お金持ちがじつにたくさんいるんですね。車が2台置ける家、広い庭の家、建築家がデザインした家、そんな家を見ていると、なんと我が家が小さくしょぼく見えてくることか。
自分が手に入れた途端、だんだんと慣れてやがて「つまらないもの」になり、また私はいいな〜病を発症していたのです。
私が家をきちんと整えようと意識しているのは、今自分が持っているものの価値に気づくためでもあるのです。
きれいに快適にして「やっぱりいい家だ」「自分にとって最高だ」と自分に気づかせてあげるため。そうすることで、今あるものを最大限に活かせるし、より自分が幸せに近づくことができる。服にしても、見た目にしても、能力にしてもそうだと思います。
しかし、私は「いいな〜病」という、(たぶん)不治の病にかかっています。
これからの人生も「いいな〜病」を何度も発症させていくと思うし、いいな〜病があったから今のワタシがある一面だってある。
いいな〜が発症するままに身を任せない、あるいはいいな〜と思うなら自分で実現する努力を始めるなど、症状に応じた対処療法をしていくしかありません。
私にとって、家を整えたり、服を整えたり、自分を飾ったりするのは、すべて自分が自分であることに満足するための方法なのです。そのうち何もしなくても、自分に満足する境地に至るかもしれませんが。それはもはや悟りに近いかもしれません(笑)。
最後まで読んでいただき、ありがとうございます。
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